かんがえていること

かけがえ、といいます。エッセイ、日記や創作短文。

耳たぶが厚いからきっと

 耳たぶに穴のあいたわたしをあの人は知らない。
 恋人と別れて、その一週間後に訪れたのがピアスの穴あけに対応している美容クリニックだった。近くて、すぐに予約が取れて、口コミがよい──穴をあける位置の相談にていねいに乗ってくれるとか、院内がきれいだとか、そういう内容──ところを適当に選んですぐに向かった。口コミ通りきれいな受付できれいなお姉さんに、予約したハギノです、と告げるとスムーズに問診票といくつかの用紙を渡される。はい、はい、はい、はい。チェックを入れて名前を書いて返す。やがて名前を呼ばれてまずはカウンセリング室に通された。
 両耳ですね。はい。位置はどうされますか。特にこだわりはないんですが、標準的な位置でお願いできますか。そうですね、では……このあたり、でいかがでしょうか、だいたいこれで左右均等になるかと。(お姉さんがマジックペンでわたしの両耳に点をつける)はい、これでいいです。
 淡々としたやりとりのあと、また待合室に戻り、やがてすぐに呼ばれて処置室へ入った。注意事項をいくつか言われながら耳たぶが冷たい消毒シートで拭かれる。音が大きいので驚かれるかと思います、と先生に言われる。はい(、驚く準備をします)。では。がしゃん!!!!!!!!!!!本当に大きな音がして実際に驚いた。痛みより音の衝撃のほうが大きかった。大丈夫ですか。はい、はい、ちょっとびっくりはしました。ですよね。(お互いすこし笑って)ではもう片方もいきますね。はい。(驚く準備)がしゃん!!!!!!!!!!!
 鏡を手渡され、のぞき込むとわたしの両耳にきらりと白いパールが光っていた。あけてもらってからしばらくの間つけっぱなしにする、いわゆるファーストピアスはなんとなくパールにしたいと思って、その取扱いがあったこともこのクリニックを選んだ理由のひとつだった。
 わたし、耳に穴があいたんですね。
 先生ははい、と無感情に答えた。あいたんだなあ、とより実感できる答え方だった。

 帰り道、じん、じん、とやんわり痛むパールを両耳にきらめかせながら電車に乗り、マスクの中で何度も、「知らないわたし」と声を出さずにつぶやいた。
 あの人に何度となく見られ、触れられ、福耳だねえ、とほほ笑まれた耳たぶにはもう戻らない。穴のあいたわたしの耳たぶをあの人は知らない。いまのわたしをあの人は。
 電車の窓の外、日が暮れつつある街に少しずつ明かりがついて、わたしの住む街ももうすぐそこに迫っている。もうきっとあの人が降りることはない駅。マツキヨがあってミスドがあって、この街にしかないものなんてわたしの部屋くらいしかないから、もうあの人が来る理由のない街。

 あの人の耳たぶには最初から穴があいていた。きみはあけないのと聞かれてこわいよと答えると、耳たぶが厚いからきっと痛いもんね、と笑われたことを思い出しながら、わたしは耳たぶに穴のないあの人を知らないのだなと思った。
 それにあの人の耳たぶの穴はこれからふさがるかもしれない。耳たぶの穴のふさがったあの人をわたしは知らない。耳たぶに穴のあいたわたしをあの人は知らない。穴があいたあと、またふさがってもそれはもう、あの人の知らないわたしの耳たぶ。穴なんてあけなくたって、もう、今のわたしもこれからのわたしもあの人が知ることはない、そんなことくらいわかっていたけど、それでも何か、小さくてもなにか、変わってしまわないことには。
 耳たぶの痛みがだんだんと強くなってきて、でも念のためにと渡された痛み止めは絶対に飲まない。耳たぶが厚いからきっと痛いもんね。頭の中で反芻する声。そうだね、たしかに痛いけど、全然平気。そうなの?強くなったね。頭の中で勝手に作りだした声。そうなの。強くなったの。きっと痛みもすぐに消えるし、いまはまだこうしてきみの声を作り出せてしまうけど、それだってすぐに、できなくなるよ。さようなら、こうしてすこしずつ。